私は解剖学の教科書や解剖マニュアルを書いているわけではありません。ただ、日常の言葉よりも解剖学的な用語の方がわかりやすい場合には、それを使っています。このブログは科学的な知識について書いたものではありません。詳細な解剖学的情報をお探しであれば、素晴らしい専門書がたくさんあります。これは、あくまで私が解剖実習でご献体と向き合い、その経験を通じて自分が何者であるか、そしてこの一生の中で特に自分の身体とどう関わるのかということについてかたちづくられてきた私自身の物語です。
ずいぶん前に、仰向けに横たわり、自分の体が徐々に腐敗して骨になるまでを想像する瞑想法について読んだことがあります。また、仏教には「墓場の瞑想」と呼ばれる修行があり、実際のご遺体が腐敗していく様子を見ながら、自分の体を内側と外側の両方から観察するというものがあることを知りました。それは、私たちの身体を含む物質的な存在が、腐敗する遺体と何ら変わらない、ただの儚い現象に過ぎないことを認識する訓練であると解釈し、非常に興味を惹かれました。
日本には「九相図」と呼ばれる、遺体が腐敗していく九段階を描いた伝統的な絵画があります。これは、日本版の「メメント・モリ(死を想え)」と言えるでしょう。美しい女性の体が徐々に腐敗し、動物に食い荒らされ、自然に還り、最後には白く乾いた骨となって地面に散らばる様子が描かれています。それは、自分の身体もまた無常であり、一時的なものであることを思い出させてくれます。
人は耐え難いトラウマを経験すると、意識を自分の身体から切り離し、自分を守ろうとすることがあります。身体は「私」という意識から分離され、特定の機能を果たすだけの道具のようになります。
禅心理学のセラピストとセッションをしていたとき、彼はよく「あなたの身体は何を感じていますか?」と尋ねました。そのたびに、私は天井を見上げたり、部屋を見回したりして、答えを自分の外側に探していました。「床に足が触れているのを感じますか?」と彼が聞いたとき、私は足が地面に触れている感覚を物理的に感じてはいましたが、それは自分の心の中で感じていることとは完全に切り離されたものでした。自分の身体をほとんど理解していませんでした。
屍の瞑想をするときでさえ、それをはっきりとイメージするのに苦労しました。自分の身体との意識的なつながりがないまま、屍はすぐにただの骨の抽象的なイメージに成り果ててしまいました。人間の身体がどれほど複雑で繊細なものなのか、そしてそれが自分の存在とどう関係しているのかを理解できませんでした。
解剖学実習を通じて、私は少しずつ自分と自分の身体とのつながりを回復していきました。解剖台に立つたびに、自分の人間性を取り戻しているような感覚がありました。人間解剖の世界に足を踏み入れてから10年以上が経ち、解剖室で過ごした時間は1,500時間を超えます。今では、年に一度の解剖ワークショップに参加することが、禅修行者が寺に戻るような感覚になっています。それは一種の精神的な修行であり、死と向き合う準備をすると同時に、現在という瞬間を生きることの重要性を思い出させてくれるのです。
ヨガでは、シャヴァーサナという仰向けに寝るポーズがあります。これは遺体を模したポーズです。解剖実習室で解剖台に向かうとき、私たちは静かにシャヴァーサナの姿勢で横たわるご献体と向き合います。それは、私たちだれもがいずれ取ることになる最後の姿勢なのです。
©2024
